レガアンビエンテ環境ボランティアの日常とは?! (ボランティア体験No.7)
わたしが、イタリアの環境団体レガアンビエンテとロンバルディア州のERSAF(農業林業支援団体)が共催するこの中長期ボランティアの募集を見たのは、NICE(国際ワークキャンプのNPO)のウェブサイトでした。(詳しいことは、今までのブログをご参照ください。リンクは左側にあります!)ロンバルディア州の州立公園において情報センターで情報提供を行う仕事だと書いてありました。これが、情報センターです。
わたしがモチヴェーション・レターその他を添えてNICEに申し込んだのは2008年の2月頃で、すぐ受け入れOKの英語のメールがレガアンビエンテのリーダーの人から来ました。それが、バーニディマジノに来る前に1週間を過ごしたモンンテバッロのキャンプリーダーの男性だったわけです。(No.1、No.2をご参照ください。)
詳しいことは1ヶ月くらい前になったら連絡があるとのことでした。実際に連絡が来たのは、2週間ほど前で、それもあまり詳しい情報ではありませんでした。寝袋やトレッキングシューズが必要とか、中長期ボランティアの期間中に開催されるワークキャンプに参加するとか、書いてあるだけでした。
休暇については、原則的には週末の2日間を休んでも良いと聞いていました。ただし、一緒に仕事をする他の中長期ボランティアの人たちと話しあって決めることが必要だと言われていました。わたしは、1回だけミラノへどうしても行かなくてはならないからと言って、2日間だけ休暇をもらいました。でも、他の人たちはずっとバーニディマジノで過ごすつもりだったので、わたしがたった1回休暇を取っただけで、かなり顰蹙を買ったようでした。その後はもう、休みを取ることはできませんでした。写真は、バーニディマジノの入り口前です。
付近の山を一緒に散策をしたり、Educatori(インストラクター)やCuocchi(コックさん)たちがいなくなって、わたし達だけになったときに、どうやってワークキャンプの子供達をリードして、食べさせて、キャンプを成功させるかについて、何度も彼らとミーティングを持ちました。フランス人、トルコ人の彼らとは、いつも英語でした。
同じ家に滞在したサマーキャンプの子供達、送り迎えをするために”家”まで来た親御さんたち、Educatoriもコックさんも、レガアンビエンテやERSAFの人たちも皆イタリア人です。多少英語をしゃべる人や、フランス語を話す人はいましたが、会話はイタリア語です。わたしは、積極的にイタリア人と話しました。なぜなら、彼らと一緒のほうが、気楽で楽しかったのです。中長期ボランティアのフランス人男性はイタリア語を話しましたが、あと二人(フランス人女性とトルコ人女性)はほとんどイタリア語を知りませんでした。バーニディマジノへ来てから、必至に勉強を始めたのです。
彼らとは、掃除の仕方、料理の仕方などについても常識が異なり、ミーティングをしても、わたしの意見は取り入れられず、フランス人女性の意見ばかりが、リーダーだったフランス人男性によって敬意を払われました。トルコ人女性はいつもニコニコしているだけという感じで、つまりわたしの存在は浮いていたのです。それに、わたしがイタリア人とよく話しているのも、彼らには面白くないようでした。わたしは、午後はこういう環境から息抜きをするために、毎日のように、下のホテルへ行きました。
ここへ来てからわかったことでしたが、レガアンビエンテとERSAFがわたし達に期待していたことは、”家”の周り、ホテルの回り、情報センターの回りの草原、それらを結ぶ山道の草刈と、Valtellina(この辺りの山岳地帯の名前)の主な山頂へ続く山道(sentieri)の整備でした。ハッキリ言って、情報センターでの情報提供の仕事はどうでも良かったのです。ほんとうにぞっとするほどの広大なエリアでした。
No.1からボランティア体験記は続いています。関連記事も是非お読みください。ここをクリック!(No.1,No.2,No.3,No.4,No.5,No.6)

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わたしがモチヴェーション・レターその他を添えてNICEに申し込んだのは2008年の2月頃で、すぐ受け入れOKの英語のメールがレガアンビエンテのリーダーの人から来ました。それが、バーニディマジノに来る前に1週間を過ごしたモンンテバッロのキャンプリーダーの男性だったわけです。(No.1、No.2をご参照ください。)
詳しいことは1ヶ月くらい前になったら連絡があるとのことでした。実際に連絡が来たのは、2週間ほど前で、それもあまり詳しい情報ではありませんでした。寝袋やトレッキングシューズが必要とか、中長期ボランティアの期間中に開催されるワークキャンプに参加するとか、書いてあるだけでした。
休暇については、原則的には週末の2日間を休んでも良いと聞いていました。ただし、一緒に仕事をする他の中長期ボランティアの人たちと話しあって決めることが必要だと言われていました。わたしは、1回だけミラノへどうしても行かなくてはならないからと言って、2日間だけ休暇をもらいました。でも、他の人たちはずっとバーニディマジノで過ごすつもりだったので、わたしがたった1回休暇を取っただけで、かなり顰蹙を買ったようでした。その後はもう、休みを取ることはできませんでした。写真は、バーニディマジノの入り口前です。
付近の山を一緒に散策をしたり、Educatori(インストラクター)やCuocchi(コックさん)たちがいなくなって、わたし達だけになったときに、どうやってワークキャンプの子供達をリードして、食べさせて、キャンプを成功させるかについて、何度も彼らとミーティングを持ちました。フランス人、トルコ人の彼らとは、いつも英語でした。
同じ家に滞在したサマーキャンプの子供達、送り迎えをするために”家”まで来た親御さんたち、Educatoriもコックさんも、レガアンビエンテやERSAFの人たちも皆イタリア人です。多少英語をしゃべる人や、フランス語を話す人はいましたが、会話はイタリア語です。わたしは、積極的にイタリア人と話しました。なぜなら、彼らと一緒のほうが、気楽で楽しかったのです。中長期ボランティアのフランス人男性はイタリア語を話しましたが、あと二人(フランス人女性とトルコ人女性)はほとんどイタリア語を知りませんでした。バーニディマジノへ来てから、必至に勉強を始めたのです。
彼らとは、掃除の仕方、料理の仕方などについても常識が異なり、ミーティングをしても、わたしの意見は取り入れられず、フランス人女性の意見ばかりが、リーダーだったフランス人男性によって敬意を払われました。トルコ人女性はいつもニコニコしているだけという感じで、つまりわたしの存在は浮いていたのです。それに、わたしがイタリア人とよく話しているのも、彼らには面白くないようでした。わたしは、午後はこういう環境から息抜きをするために、毎日のように、下のホテルへ行きました。
ここへ来てからわかったことでしたが、レガアンビエンテとERSAFがわたし達に期待していたことは、”家”の周り、ホテルの回り、情報センターの回りの草原、それらを結ぶ山道の草刈と、Valtellina(この辺りの山岳地帯の名前)の主な山頂へ続く山道(sentieri)の整備でした。ハッキリ言って、情報センターでの情報提供の仕事はどうでも良かったのです。ほんとうにぞっとするほどの広大なエリアでした。
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